あぐらのSoloZakki

令和が始まる直前に53歳で退職しました。安定から自由を目指します。

「ビジネスエリートの新論語」を読んで分かる60年前と変わらぬ部分

積ん読状態からようやく読む

2016年当時の発売当時に買ったものの、当時は早期退職準備に専心してたので、読んでいる余裕がありませんでした。ずっと積ん読状態だったのですが、8月の猛暑で籠もり気味になったので、ようやく読みました。サラリーマン全般に関係する古今の金言名句をお題にしたエッセイ形式となっています。

大工さんには大工さんの金言がある(中略)

さてサラリーマンの場合である。いったいそのようなものがあるだろうか?(中略)

ないということは、この職業の本質そのものに関係がありそうな気がする。

 サラリーマンの窮屈さ、家庭、出世、定年etcなどの会社生活の多岐に渡った内容になってます。新論語というのは「サラリーマン」を「君子」となぞらえたものなんでしょうが、 

君子危うきに近寄らず

と言うような新金言と解説という構成ではありません。

サラリーマンは窮屈だが 

昭和30年代と言うと、もう60年以上前の話になりますが書いてある内容はそれほど古臭くなくて、今も通用するようなエッセンスがあります。

評論家になる事への注意

評論家でもない人聞が表現能力や批評能力を誇ったところで、一文のもうけにもならないことはわかりきったことだ。ならないばかりか、批評された向きから、やがては十倍にもなってお返しがもどってくるぐらいがオチなのである

仲間(同僚)との距離感 

友情には「友情より気高い人生の快楽はない」などという高邁な言葉があるが、仲間道にはそうした精神的要素には乏しい。しかし、サラリーマンとして暮してゆくには、ぜひ必要な処世の方法なのだ。精神をともなわない擬似の友情、たとえそうであっても、悲しいが、やむをえない。 

 家庭とサラリーマン

サラリーマンとは、いわば"家庭業"なのだ。楽しい家庭を作るためにのみ彼らは昼間アクセクとはたらく。家庭を度外視してサラリーマンの人生はどこにアクセントがあるのか。サラリーマンは、家庭にコンパスの針を置いて円をえがく人生者だということを忘れてはいけない 

時代が変わりましたが、家庭とサラリーマンの関係は変わらないですね。(家庭を持ってなくても疎外されたりはしませんが)

司馬さんの基本的なスタンスは「サラリーマン」は窮屈でつまらない事も多いけれど、安定しているし、そんなに悪いものじゃない(メリットもある)というスタンスです。

早期退職という社会死

もちろん昭和30年代の社会なので、早期退職の話題は出てきません。ただ当時から(定年)退職という節目に対する不安感(心理的重圧)はあったようで

老年の悲劇は、彼が老いたからでなく、彼がまだ若いところにある。

<ワイルド>

 著者の友人が定年間近になって定年の遅い職種へ転職した事に驚かされたエピソードがあります。60年以上前の今ほど暇つぶしが無い時代の人に取って、寿命が「自然死」であるならば、定年退職は「社会死」(社会的活動の停止)であり、そういう「死」に対する不安やストレスに対して、定年の遅い仕事に転職してそれを避けようとしていた訳です。

 2019年の日本では暇つぶしは事欠かないですが、いつまでも働きたい人はいますし、退職が持つ「社会死」的な側面には変化がない気がします。  

 自分はもうサラリーマンじゃなくなったものの、サラリーマンの窮屈さとメリットは十分理解できました。窮屈さの中にもそれなりの専門性とそれなりの工夫というプラスアルファを加えて仕事をしてきました。「それなり」と言うのは(プロ)個人事業主になるほどでもないという意味です。

 それがもともと低かった専門性が年とともにさらに下がり、完全にサラリーマン(会社へ行く事で給料を貰う人)化してしまう未来が見えてしまうのが、辞める理由のひとつでしょうか。

 

 文脈は忘れましたがこういう一節もありました。

人生は一日一日の算術的総和にすぎない。明日を煩う精力があれば、その分を今日にまわしてせいぜい一日を充実させるほうが賢明な生き方だ。

サラリーマンであるメリットを活かして毎日を楽しく生きようという意味なのですが、自分の場合は、安定はしているけれど、このまま居続けると拘束時間が多すぎて窮屈、楽しく過ごせないという面で辞める事を考えました。充実させるというのは無職1年生が今すぐ言える事ではないですが…。