あぐらのSoloZakki

令和が始まる直前に53歳で退職しました。安定から自由を目指します。

「ゼロで死ぬ」派だけど「ゼロで死ななくても良い」理由も理解できる

「ゼロで死ぬ」になるべく寄せたいと思っているのですが、一方でゼロにしなくてもいい理由についても何となく浮かんできます。例えば、週末に東京マラソンを走るのですが、マラソンに対する気持ちも年をとるに従って変わってきました。

 

加齢と心理的な変化

シンプルに言えば「しんどい」事はできるだけ避けたいと言う気持ちです。練習も以前は本番で悔いのないように頑張ろうと言う気持ちが強かったですが、今回はそこまで自分を追い込もうと言う気持ちはありません。

こういう気持ちの変化から考えると、年をとれば「ラク」に走りたいと言う気持ちがより強くなるんだろうなあと感じます。

 

想像できるお金の使い道

生活費を抑えるために節約は大切ですが、節約は金銭コストを別のコストで補う事です。有料交通手段を使わないで歩く、時間をかけて遠くまで安い買い物をする、節約情報を探す、ポイ活などの手間をかける。こんな風にお金の代わりに気力・体力や時間を必要とします。

そういうコストをいつまでも払い続けられるのか、ある種の修行のような暮らしをいつまでも続けられるでしょうか?

「雨」の日は遠くのスーパーでなく(割高でも)眼の前のコンビニで済ませたい。歩くのが面倒ならばタクシーを使いたい。旅行もできるだけ座って移動したい。サイトを調べまくって安い宿や飛行機を見つけるの面倒くさい、そういう気持になっていくのではと思います。

ラクをするためにお金を使いたい、そんな風に考えになっていく自分も想像できます。

 

「Die with Zero」を考えられない背景

先週34年ぶりに日経平均が高値をつけましたが、(逆に考えると)ほとんどの日本国民がここ34年間「逆バブルな生き方」をしてきたと言う事です。

お金を使う事に慎重になり、生活防衛のために欲望を抑えるマインドセットで生きてきました。そんな時代を生きてきた現代の日本人が、消費大国アメリカで生まれた「Die with Zero」の作者と同じような金銭感覚をいきなり持ちづらいと言うのもあるでしょう。

agura-huma.hatenablog.com

昨日も書いたように、人間は生き方を変える(新しい選択をする)事にストレスを感じるものです。

 

「アリかキリギリスか」

ここまで「ゼロで死ぬ」生き方を選ばない理由を書いてみたわけですが、個人的には「ゼロで死ぬ」に寄せていきたいと考えています(苦笑)

将来はラクをするためにお金が必要だと思いつつも、一方で老後は生活費はかからないという意見も目にします。また長く続いたデフレ時代背景が日本人を低欲化しているといいますが、私の亡くなった父親は、母子家庭で育ち中卒で働いてましたが、そういう境遇にも関わらず、お金を使う事について自分の欲望に忠実な人間でした。そういう姿に反面教師な視点は持っているんですが、一方で悔いのなさそうな生き方にも憧れます。

どんな生き方も客観的に考えると色々とプロスコンスは浮かびます。「アリ寄り」なのか「キリギリス寄り」なのかは、結局、損得勘定を突き詰める話でなく「生まれつきの性格の範疇」なのかなとも感じます。